先日父が入院しました。
その日の朝、父から電話があり左半身のしびれが強いから、一緒に病院へ行ってほしいとのことでした。
すぐに実家へ駆けつけ病院へ行き、MRIの検査をしました。
担当した医師が気になる点が一つああるので、再検査をして経過観察したいと言うことで、そのまま検査入院となりました。
急患で行ったこともあり、診察や検査に時間がかかり、またその結果を確認するのにさらに時間がかかり、結局6時間ほど病院にいました。
その8割は待ち時間でしたが、その間にもしきりにこのしびれは取れるのかな、頭が重いけれど大丈夫かなと心配している父と一緒にいてふと思ったのは、こうやって長い時間を一緒に過ごすのはいつ以来だろうかと言うことでした。

 2年前に父は心筋梗塞を患うまでは健康そのもので元気でしたので、私が社会人になって家から独立した後もそれほど一緒にいる機会もなく、会社を継いでからも部屋が別のこともあり、一緒に行動することもあまりありませんでした。
特に10年ほど前からインドへ行くようになり益々会う機会が減ったように思います。

 父が倒れてから週に2日リハビリも兼ねたデイサービスへの送迎をするようになり、一緒に食事をする機会も多くなりました。
改めて父と一緒にいると、疎開していた頃の話や戦時中の話など今まで聞いたこともないような話をしてくれます。
もし、あの時心筋梗塞で亡くなっていたら、こういう時間を過ごすことができなかったと思うと、神様から素晴らしいギフトを頂いたように思います。

 元々なんでも自分でやる父なので、人に世話になることが大嫌いでした。
その父が体が言うことが聞かないため、今は周りの人たちの力を借りて生きています。
先日もこんなことを言っていました。
「体のしびれが強くなると調子がよくない。この先体がどうなるかわからないけど受け入れるしかないなあ。」
諦めやイライラもなく、ただ自分の今の状況を受け入れる父の姿が大きく見えました。
こうして、年を重ね一緒にいる時間が増え、分かり合えることが嬉しいと思う日が来るとは考えもしませんでした。

『いかに死ぬかを学ぶことは、いかに生きるかを学ぶことだ』
これは「モリー先生との火曜日」と言う本の中で、ALS(筋萎縮性側索硬化症)になり、余命半年と宣告されたモリー先生の言葉です。

 87歳になる父がリハビリに取り組んでいる話を聞くたびに、父自身が元気になっていき、そして周りの人も元気にする。
これが父の生きる原動力になっているように感じます。

 同じくモリー先生はこうも言っています。
『《与える》のは《生きている》ということ』

 父の余命がどれほどかは分かりませんが、少なくとも今父に寄り添って、同じ時を過ごせるのは私にとって父からの大きなギフトだと感じるようになりました。

 人は様々な体験をします。
 そしてその体験をどう捉えるかのかは、自分自身へのギフトなのです。

 この一連の出来事は父との距離感が一気に縮まる体験になりました。


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